ついにきました髷の系譜!(ここまで引っ張っちゃってすいません。)
縄文時代から始まり、やっとここまでたどり着きました…長かった。
もはや、このテーマを書きたいがために、これまで書いてきました…(泣)
これまでのすべてを「伏線」と言っても過言ではありません。(笑)
『月代(さかやき)』とは、何なのかを徹底的に解説していきます!!
(月代とは、あえて剃って作った髷スタイルのことを指します。)
まず、現在まで言われている『月代』にした始まりと理由をお伝えしていきます。
以前ブログでも書きましたが、鎌倉時代から始まったとする説があります。
ですが、お坊さんが剃る事はあっても、武士や一般人がわざわざ剃ることは、まずありえないでしょうね。
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いつから剃るようになったかという点については、これは間違い無く『江戸時代』からです。後ほど時系列を追って解説していきます。
月代にし始めた理由については、戦で兜を被った時に、頭が蒸れて痒くなってしまうからという理由だそうです。
…う〜ん。なんかしっくりきませんよね〜(笑)
だったら剃らずとも短く切ればいいんじゃねぇ!?ってツッコミたくなりますよね!
そもそも江戸時代、戦らしい戦はないんです!(幕末くらいでしょうね。)しかも武士でもない町人や若者でさえもやってるし…
あと私事ですが、小学生の頃から剣道をやっていましたが、面を被って竹刀で打たれた時の衝撃が、髪が伸びきっているか、スポーツ刈りでカリカリに短いかでも、大分変わります。
むしろ剃ったりなんかしたら尚の事、兜が滑ってズレそうですし、人と人がぶつかり合う中で、ちょっとでもショック吸収できたほうが、もはや有利にすら感じます。命のやり取りをするギリギリの中で、頭が痒いっていう事がそこまで重要なのかは、甚だ疑問ですね。
頭の部位でいうと、襟足部分が髪の毛が一番密集していますので、痒くなりやすく、熱もこもりやすい場所なので、わざわざ剃るならもはやこっちでしょうしね…
鎧かっこいいですね!
(見えづらくてすいません!いい写真撮れ次第差し替えます。↑後ろからアップで。)
中の方を見ると、頭を固定するような木製?の輪っかのような物がありますね。これでズレづらくしていたのでしょうが、頭皮に直に当たり続けたら痒いどころか痛そう…
ということで、現状考えられている、戦によってわざと月代にしていたという可能性は極めて低いんじゃないかと思われます。
では、いつから何のために月代にしたのかを分析していきましょう。
以前のブログでちょいちょい触れてはきましたが、織田信長のようにバリバリの戦国武将でも髪ありましたし、こちらの記事でもご紹介した1574年時点では、まだ月代をやっているようには見えませんね。
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1615年に作成された「洛中洛外図屏風 舟木本」岩佐又兵衛筆
京都を描いた作品です。2500人もの人々が描かれています。今回も全員チェックしましたが、この年代もまだ月代にしている人は、ほとんど見当たりませんでした。
一応それっぽい人を一人だけ見つけました!本当に微妙ですが…(ウォーリーを探せ!状態です。)
ちなみに若衆髷は、ちらほらいました!
下の方に、美容院(髪結床)がありましたね!こんなちっちゃい場所でやっていたなんてとても涙ぐましいです…
「先輩ッ!未来の僕ら、もう少し大きい所で仕事できるようになりましたよっ!(泣)」
いやぁ〜礎の上に立たせてもらってますね。
でも、意外だったのが、男性が女性の髪を結うんだなぁ〜と。1700〜1800年代なんかは、女性は女性、男性は男性の髪を結う絵しか見た事ありませんでした。
南蛮人らしき人も見つけました!
あとは、こんな絵もあります!
支倉常長(はせくら つねなが)が、ローマ教皇に謁見しに行った時に、現地の画家が描いた銅版画です。
右下に小さく『1615』と書いてありますので1615年?に作成された物のようです。完全に月代になっていますね!月代部分の毛が少し伸びてきているのがわかります。後ろは髷というよりかは、折り髷に結っているだけに見えます。
下2つも支倉常長です。
この絵の髪型は微妙ですね〜。普通にトップが長そうにも見えます。
こちらも1615年頃に、描かれたとされる支倉常長です。(日本人初の油絵で描かれた絵画)こちらは月代にはなっていませんね。上の絵により雰囲気が近い感じがします。
こちらも後ろで折り髷にしているだけのように見えます。はい…とても迷宮入りしそうな案件になってきました(笑)
描かれた時期が、どれが先かはわかりませんが、西暦らしき数字の書かれている上の絵のほうが古そうにはみえます。
当時の日本の年号と西暦の誤差は、数年あるらしいので、正確に割り出すには難しそうですが、1615年前後くらいには『月代スタイル』があった可能性があると見てよさそうです。しかし全員がやっているわけではなく、ごくわずかの一部の人が剃り始めた時期ということですね。
南蛮屏風 狩野内膳 1600年初頭
こちらの屏風は、厳密な時期は不明ですが、月代か?若衆髷らしき髷の人も描かれています。
ちなみにこの黒装束は、イエズス会の人たち。
この緑や色とりどりの派手な方々がフランシスコ会御一行です。やはりトンスラの人たちもいますね。でもこの服装をみると上部の方で紹介した洛中洛外の絵に映る南蛮人はフランシスコ会の人でしょうね。
江戸屏風図 1632年前後製作(おそらく徳川秀忠が亡くなって以降じゃないかな?)
この屏風は、3代将軍 徳川家光を讃えるために製作された屏風と言われています。(当時の江戸が描かれた数少ない作品だそうです。)
この屏風に描かれた人々も全て確認しました…
な、なんと!9割以上の男性が月代スタイルになっているのです!!
何千人と描かれた中で前髪がありそうな男性は、もはや10人くらいしかいないのです!
一体この約10年で何が起きた!??な、な、ななんでハゲばっかりになってしまったんだぁ!!
はい。完全に髪型の歴史のターニングポイントです。
この屏風に描かれている人達が、おじさんやおじいちゃんばかりという訳でもなく、江戸でハゲになる病が流行ったわけでもありません。
断言します!!みんなあえてこの『髪型』にしたのです!
イケてる流行に乗りたくてやったわけでもありません。
鎌倉時代でも現代でもハゲているというのは恥ずかしい事なのです。
いつの時代もみんな髪が薄くなるのをを気にしていて生きてきたのです。
では、なぜ自らハゲて見えるスタイルにする必要があったのか…
それは、『しなければいけなかったから』なのです。
命令だったのではないでしょうか?
という事で、この1620年代〜1640年代くらいの間に何かがあったという事になります。この後、約200年続く髪型が、この20〜30年の間に起こりました。
誰が何のため指示したのかを紐解いていきます。
もちろんほとんどの男性の髪型を変える事を指示出来る人物っていうのも限られてきますよね?パッと思い浮かぶのは天皇か徳川か…
当時の政治や権力の実権は、ほとんど徳川家が握っていたのをみると、天皇家ではなさそうです。
となれば、将軍徳川秀忠から徳川家光に移り変わった時期でもあり、どちらかが指示した事になりますね。(是非、秀忠と家光ウィキペディアで調べてみてください!)
この時期は、髪型だけではなく大きく情勢も変わりました。
ja.wikipedia.org
ja.wikipedia.org
私の独断と偏見の解釈になってしまいますが、秀忠は保守的で真面目な人物のイメージがあります。1612年に禁教令を出してはいますが、仲の良かった武将もキリスト教であったことから、さほど圧力は厳しくなかったように思います。情にあつかったのかなぁ〜。
それに対して家光は、次々と新しい政策を打ち出し、武力をもって独裁的に政策を進めていきました。島原の乱に始まり、徹底的にキリシタンを排除し虐殺していった背景をみると、相当自己主張強めな男かなと思われます。
秀吉や家康、秀忠でさえもキリスト教を黙認していただけに、かなり嫌っていたようですね。家光については、詳しく調べるとたくさん面白い事がわかります!(是非検索してみてください!)
有名な話ですが、家光は同性愛者であり秀忠亡き後は、二元政策はなくなり、近しい家臣達は自分の好みの男性達に一掃したそうです。暴走状態に近かかったのかな…
それまでにいた家臣達や、それ以外の大名からも不満の声は多数でたのは言うまでもないでしょう。嫌な上司やなぁ〜!
ちなみに、カトリックは同性愛は禁止です。当時全国で50万人以上がキリスト教徒でした。(江戸の人口100万人)これの意味する事は、ご想像にお任せします。
後に、『寛永の大飢饉』などもあり、武断政治の影響が大分でたんじゃないかとの見方も強いようですね。
結構ガタガタっと徳川政権きたみたいですが、四代将軍家綱がんばったね〜。なんとか持ち直したそうです!
という事で、「髪を剃れ!」なんて言いそうなのは家光かなぁ〜。(笑)
キリスト教の大虐殺や鎖国政策などから考えられる事は、とても「革命」を恐れていたんだろうなぁと思われます。
自身の地位を守りたかったのでしょうし、自分以外の人間が崇拝や尊敬されるのも許せなかったのかもしれませんね。まあ自己顕示欲の塊だったんでしょうね!
容姿に対しても結構コンプレックスあったようなので、仮に若くして髪が薄くなってきていたとしたら…十分に考えられますね。
全員が同じ髪型なら、ハゲているかハゲていないかでの優劣はつかないので、バカにされる事もないですし。
(以前にも紹介しましたが、ハゲる時は前髪と上からきます。横と後ろは残ります。要は月代スタイルってことですね。)
しかし結果的に、功を奏していきます。この月代という文化が、徳川家の繁栄を決定づけたと言っても過言ではありません。
たかが髪型と思われる方も多いとは思いますが、世界中見渡しても髪が「あるか」「ないか」は、とても重要な事なのです。
ヨーロッパでは、みんなカツラや王冠を被りました。南蛮人が被っていたような帽子もそうです。『頭を隠す』というところから、すべては始まっているのです。
トップに立つ権力者にとって最も重要となるのが、『印象』です。
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こちらでも書きましたが、髪の毛がフサフサで剛毛な人の方が、薄い人に比べて説得力、信頼感、威厳が圧倒的に上がります。
現在、総理大臣の安倍晋三さんは歴代最長任期ですし、最高支持率のあった小泉純一郎元総理もとても髪がフサフサです。(モサモサ)
日本国民の多数派が深層心理で、どこか安心感のようなものを感じていたのかもしれません。
ということで、一度まとめます!
江戸時代の日本では、多数派を月代にすることで、威厳を保ち、髪の毛があろうが無かろうが、それが『普通』という常識の髪型を定着させたのではないかと思います。
1615年前後から月代にする習慣が一部ではじまって、徳川家光の政権が始まって秀忠が亡くなったあたりから、急激に月代にする男性が増えた!という事ですね。
あきらかにハゲ率が高まったのを見ると、何かしらの指示があったと考える方が自然な気がします。仮に月代にすることが流行っていたとしても、200年以上も続く「流行」が存在すると考える方が難しいので、何かしら意図を感じますね。
ハゲになる病なら面白いけど!(笑)
印象という観点で考えれば、男が大人になれば月代をするという「あたりまえ」の文化を作った事は、政治を動かす上で彼の行った最大の偉業だったのではないでしょうか。
1600年代後半を代表する画家、浮世絵師の祖と呼ばれる菱川師宣(ひしかわ もろのぶ1618〜1694)が描いた絵をご覧ください。
菱川師宣の絵をたくさん見ましたが、ほとんどの男性は月代のスタイルになっています。1600年代半ばまでは、折髷に結っている人が多かったのですが、銀杏髷っぽい形になってきましたね!!
他には、こういったスタイルもありました。
右が男性ですね。アップで!
まるで女性のような髪形ですよね。髱(たぼ)が随分出てますね!前髪もポンパドールっぽくなっています。トップは若衆髷のように丸く剃っていますね。
実はこの髪形にしている人が、ちらほらいるんですよね〜。ほとんどは若者だと思うのですが、遊女と遊んでるチャラ男に多い髪型に見受けられます。(個人的な意見です)
完全にR.Y.U.S.E.I.踊ってますね!(三代目J SOUL BROTHERS)
1600年代後半は、月代や髷の過渡期を感じますね。
1700年代の代表的な画家、鈴木春信(すずき はるのぶ 1725〜1770)
1700年代になり月代の髷スタイルが定着しましたね!「THE 江戸時代」って感じの空気感ですね。
この絵のタイトルが「若侍の身支度」です。やはりこの時期も若者は、この髷スタイルなんですね。1600年代とは変化し髱はなくなり、髷が上にシュッと上がり始めましたね。でも頭頂部は剃る!…とても教えてあげたいです。その髪型変だよ!
1700年代後半は、巨匠こと葛飾北斎の絵を見てみましょう。この人本当に上手いですよね!
北斎の絵は、ほぼ全ての男性が月代に剃っています。剃った後の青い部分や生え際、髷の形まで細部に渡って細かく描かれています。
絵のことはあまり深くわかりませんが、彼の描く髪の毛、髪型は圧倒的に美しいです。毛先や髪の毛一本に想いを込めるこだわりが情熱が伝わります。
時は流れ、江戸時代後期1800年代になると、あきらかに月代にしない人がちらほら現れはじめました。徳川家の力も陰りが見え始めた時期でもありますよね。
人々は自由を求め始めたのです。
『個性』を主張したカリスマが、各地に現れ始めました。最初は些細な事だったのかもしれません。天地を揺るがす革命が起きたのです。
時は明治に変わり『散髪脱刀令』が出されます。やっと髪型の自由を手にしたのです!
(なぜ散髪令は出されたのか?について明治編で詳しく解説していきます!)
髪型や印象なんて、生きていく上では大した事ではないかもしれません。
しかし時代に名を刻み、時代を変えてきた人間は、圧倒的にカッコイイのです。
源頼朝が、どこにでもいる只の貧乏人なら北条政子は見向きもしなかったでしょう。
信長が厳しいだけの男なら秀吉は憧れなかったでしょう。
坂本龍馬に魅力がなければ誰も話を聞かなかったでしょう。
せごどんが弱そうなら、誰も彼に命を捧げようとは思わなかったでしょう。
髷の歴史が終わって、150年。
まだまだ最近なようで、随分昔のように感じます。
髪型も随分進化しました。男性も女性もみんな髪が長かったのです。
男性の髪型が短くなったのって、まだ150年って不思議なものですよね。
これからも進化を求め、先人の想いを受け継ぎ、日々精進しようと心から思いました。
大分長いブログ(3本分)になりましたが、どうしても書きたいことを全部詰め込んじゃいました!
すごく読み辛かったと思いますが、ここまで読んでいただきありがとうございます。
このテーマで1年以上悩みに悩んで研究してきました。
個人的には、やり切った着地になったなぁと思っております。
改めて歴史を勉強し直して、新たに知ることもたくさんありました。また更に、日本史の魅力にどっぷり浸かれそうです。
髪型ブログは明治まで続きますが、ゴールが明確に見えてきたのは、とても嬉しいっす。
最後に、
このブログを書いている時、喉が渇いたので飲み物を買いに行ったら、目を疑いました…
こんな物が売っていました!流石にビビりましたね…こ、こ、この紋所は…
「お前、俺の悪口書きすぎやろっ!」と家光の声が聞こえた気がしました(笑)
『 さーーーせんしたぁぁーーーーー!!』
でも、最後にもう一個だけバカにさせてくださいっ!!
徳川家光の描いた「うさぎ」だそうです。
…うん。なんか…なんとも言えない感じですね…
なんか怖いんだけれども、味があって上手くも見えてくる。
…いや、でも怖い。
良い時代でした!!