室町時代以降、日本の宗教観は大きく変わりました。
西洋の宗教「キリスト教」が入ってきたのです。
1549年にフランシスコザビエルらが来日しキリスト教を広めました。
この髪型をご存知でしょうか?
この髪型は、『トンスラ』といいます。えぇ。とても奇妙な髪型ですよね…
この絵のように、まるで鉢巻をするように髪を残して、頭頂部を剃って行きます。どうやらキリストが十字架で被せられた「いばらの冠」に見立てられていると伝えられています。
本場ヨーロッパのほうでは、13世紀以降は、聖職者(司祭、宣教師、上の位の人)は絶対しなければいけない髪型だったそうです。
キリスト教と言っても、大きく分けて「カトリック」と「プロテスタント」という2つの宗派に分けられます。(小さいのも入れればたくさんあります。)
この時期に、日本に入ってきたのは、主に「カトリック」の方ですね。(語弊が多々あるかもしれませんが、この記事でキリスト教と指すところは、カトリックです。)
日本で最初にキリスト教を伝えた言われているのは、ザビエルら一行です。
ザビエルらは1534年にカトリック内のグループ?小組織的な「イエズス会」を創設しています。
後の日本で広まったキリスト教の足跡と、このイエズス会の教えが、若干矛盾する部分があったりするので、実際のところは日本に広まった「キリスト教」というのは、わからない事が多いですね。
ザビエルといえば、トンスラのイメージありますよね?
しかし、通常イエズス会では、トンスラをする風習はないらしいのです。
まだこの時期ザビエルを始めとする初期メンバーで設立したばかりなので、髪型をどうするかってのが、曖昧だったかもしれませんし、広めていた担当のキリスト教徒がイエズス会ではなかった可能性もありますしね。
まあ結構謎多いですわ。
ということで、その辺の謎に髪型という視点から考察していきたいと思います!
回りくどくなりましたが、こちらの絵をご覧ください。
上杉九将図(上杉謙信と家臣たちですね。)
左下の方に描かれた「甘糟近江守」と一番下に描かれている「宇佐美駿河守」をアップで。
完全にトンスラですね!おそらくこの二人はキリスト教徒だったのでしょう。
しかもトンスラにしているという事は、宣教師や司祭クラスのの上の立場だったのでしょうかね。
お年を召していますし、ハゲていただけじゃないの?と思われるかもしれませんが、ちがうんです!
人間のハゲ方には特徴があります。頭頂部から先に来るパターンとおでこから来るパターンがあります。
その後、トップとおでこのハゲがつながり「よくあるハゲてる頭」になるんですね。
斎藤さん
逆に前髪だけ残るってのは、ありえないんですよ。大概の場合は、前髪から薄くなります。
よってキレーに前髪のラインだけが残るのは、わざとこの髪型にしていると考える方が自然なんですよね。
さらに上杉家について調べると、より核心に近づけることがわかりました。
上杉謙信、その後当主の上杉景勝も宗教や信仰に対してとても寛容だったようです。
もはや自由!それも相まってか、家臣や領民にキリスト教を信仰している人がたくさんいたそうです。
後の江戸時代に幕府から禁教令が出されても「当領内には一人のキリシタンも御座無く候」と領民たちを守ったと『日本切支丹宗門史(1629年)』に記されています。
いやぁ〜、当時のキリシタン討伐は本当に激しかったですからね…
長崎や島原の乱など有名ですが、全国的に虐殺は行われていました。
日本史上同国民による大虐殺劇だったのではないでしょうか。
そんな中、部下や民を守る優しいトップだったのでしょうね!
間違い無く「上司にしたい男性ランキング」があればNo.1だったのは言うまでもないでしょう。
ということで、甘糟近江守と宇佐美駿河守は、立場的に見ても熱狂的なキリスト教信者で「宣教師」であっても、なんら不思議じゃないという事ですね。
大河ドラマにもなった「天地人」の主人公「直江兼続」は、『愛』を兜にかかげていました。(愛の文字の下は雲になってます。)
愛宕神社を信仰していたから愛を掲げていた。という説が有力ですが、雲の上の愛といえば、なんだか聖母マリアやキリストを連想してしまうのは僕だけでしょうか?
もしかしたら、もしかしたら!キリシタンだったのかもしれませんね。肖像画など詳しい情報は残ってはいませんが、上杉景勝の右腕でもある直江兼続がキリシタンであれば、なおの事、超有能な部下を失いたくないですから、信仰の自由を尊重したでしょうし、意地でも幕府から守ってあげたかったのではないのかな〜なんて思いました。
いつか、直江兼続の肖像画見つかれば是非とも髪型見てみたいですね!
他にも全国的にたくさんの有名な武将がキリスト教徒でした。キリシタン大名
レオンさんの髪型よーく見たら変な髪型してますね!もみあげとキワのエッジがスゴイ!
有馬晴信(ドン・プロタジオ)肥前日野江藩主、徳川秀忠の代まで仕えました。
とりあえず、秀忠の時代までは、キリスト教は許されていたのがわかりますね。
高山右近(ジュスト・ウコン)大阪
高山さんは、家族全員フィリピンのマニラに島流しにされて、お亡くなりになられました…しかし、後に家族は日本に帰ってきているので、キリシタンだから島流しにされたわけではなさそうです。フィリピンはスペイン領でガチガチのカトリックの国なので、もはや旅行だったんじゃないか説(笑)…あると思います!
軍師と呼ばれる人に多かったのかなぁ〜。
一説によると、当時日本中でキリスト教徒は50万人以上いたと言われています。
当時の江戸の人口100万人、大阪の人口50万人と言われているので、50万人以上という数字は相当な数に感じます。
バテレン追放令や禁教令など…語りたい事が山ほどあるのですが、髪のブログなので、そろそろやめておきます。(また江戸時代編で、軽く触れていきますね。)
とりあえず、まとめます!
1549年以降、圧倒的な勢いでキリスト教は広まっていきました。
天下人でもある織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らもキリスト教への信仰を認めていて、キリシタン大名と呼ばれるたくさんの武将にも影響を与えました。
キリスト教内で位が高くなれば、「トンスラ」にしていたようです。
江戸時代の禁教令の影響もあってか、キリシタンに関する情報は少ないですね。
結構、近い過去の話なのにねぇ〜…残念です。
最後にザビエルを紹介していきます。
ザビエルといえばこちらの絵が有名ですよね。
実はこの絵が描かれたのは、ザビエル帰国後?死後?の80年後の江戸時代に描かれたと言われています。なので完全に想像画なのです。
当時の画家が「キリスト教といえばこの髪型だよな!?」っていことで描いたと思われます。
キリスト教といえば「トンスラ」!
マリア十五玄義図(下に描かれた黒服の男性はイエズス会創始者のロヨラとザビエル)
これも江戸時代あたりに描かれたようです。どちらが先かはわかりませんが、ザビエルは同じ感じですね。
しかし海外のサイトでザビエルを検索すると、髪型がなんとも曖昧なんですよね〜。
こちらの絵もザビエルです。角度的に見えづらいですがトンスラではなさそうです。
海外の画家が描いた、たくさんのザビエルを見ましたが、トンスラじゃないザビエルが多いんですよね〜。
おそらく存命中に描いたザビエルはまだ見つかっていないんじゃないかな。
では、仮にザビエルがトンスラでなかった場合に、なぜ江戸時代の人々の間でキリシタンのお偉いさんといえば「トンスラだ!」という認識があったかについては、イエズス会以外のカトリックグループも一大勢力になっていたという事ではないのかな〜と思います。
他には「フランシスコ会」と「ドミニコ会」というカトリックのグループが存在します。
この2つのグループもイエズス会の後から日本での活動を始めています。
答えはこれでした。
この2つのグループの宣教師たちはみんなトンスラなのです!面白いほどにみんなトンスラです!
フランシスコ会のルイス・ソテロは、徳川家康や秀忠と謁見し許可をもらったそうで、伊達政宗などとも交流があったらしく東北地方での布教活動もしていたそうです。
はい。上杉家や北日本とも繋がりましたね!
左 支倉常長(山形県米沢出身) 右 ルイス・ソテロ(トンスラになってますね。)
ドミニコ会 会士
ということで、一口に日本でキリスト教が流行ったと言っても会派によっても地域差もあったということですね。
そして、日本にこの2つのグループが入ってきて、わずか20年弱で「禁教令」が出されています。(1593年くらい〜1612年)
イエズス会が流行し始めてからは、30年は経っていたので、この2つのグループのどちらかが、もしくは2つのグループが幕府を脅かすような危険な思想があったのかもしれませんね。
よって、江戸時代に入っても特に目立っていたであろうフランシスコ会、ドミニコ会の印象が強かったがために、江戸時代の人々の中では、キリスト教=トンスラだったのかもしれませんね。
なんかいろいろ謎が解けたような気がします。
私個人の結論としては、ザビエルはトンスラではなかったんじゃないか説!
江戸時代になって、鎖国になったとはいえ、中国やキリスト教の中でもプロテスタント国のオランダやイギリスとは国交は継続してありましたので、言うほど鎖国でもない気がしますよね。
結果的に、徳川幕府はカトリック国との関係を切って、250年以上も続く天下泰平を勝ち取ったのでしょう。
とても長くなりましたが、これまでのすべての一件は、それぞれの正義のために戦い、ある意味では「平穏」という所に落ち着いた、信仰の通過点だったのかもしれませんね。
しかし、後の未来に訪れる「出来事」の伏線になったのは間違いないでしょう。
未来ってのは、明るくも暗くもないよな。